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間  章  が  半  夏
間  章  が  半  夏
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”深 海 の 汽 笛”     (間 章 が 半 夏  IA -番外編)

 

24年前、間章(あいだ あきら)が32才で死んだ。

   2002年12月12日夜、新潟市西堀通り三越デパート向かいの旧マンハイムで 『ライヴ12+12=24/間章(Aquirax Aida)』 があった。
  旧マンハイムとは最近まで、間章の母上が40年間経営していた喫茶店だった。 母上はその店にほぼ毎日顔を出していた。
   その母上の娘、すなわち間章の妹も20代前半の若さで亡くなっている。 我が子二人を亡くした、人に言えぬ喪失感は計り知れない。 『母』は日々の商に身をさらすことで 『取り戻せぬ運命』 を忘れようとしていたのだろうか。 決して弱音を見せぬ母上に対し他者の私達はよくありそうな視点を安易に当てはめてしまう。
 マンハイムは喫茶店とはいえ昭和30年代から、新潟の数少ないライヴ空間として利用され、当時から東京のジャズマン達が演奏にきていた。  70年代は間章関連アーチストのライヴもあった。
  しかし、私は”待合せ”であれ ”ライヴ ”であれそのマンハイムに間章と一緒にいた記憶は一度もない。 同年の私に『母』 と一緒の場は照れくさかったのだろうか。 

  青山監督のAA映像完成まじかと、間章の母上の「マンハイム」閉店が重なり誰ともなく 『マンハイムさよならライヴ』 をという声が上がり、 母上も待っていたように承諾したという。

         『ライヴ12+12=24/間章(Aquirax Aida)』
     出演:近藤等則、高木元輝、豊住芳三郎、土取利行
特別上映:『AA 〜音楽批評家・間章〜』パイロット版(青山真治監督)

そんな内容のメールがベガーズバンケットのアキラからきた。
  青山監督ベガーズバンケット出演アーチストスタッフも、 かっての少年達があたかも 今 ”恋に落ちた” ように間章の母上の気持を生き始めていた。 私も高価なチケット2枚を ”恋に落ちた”ように二つ返事で予約していた。

  旧マンハイムの客席は20坪もない。 2組のドラムセットが 左と右に置かれていた。 狭い空間なので 『ドリンク一杯とスタンディング』 と書いてあったのだが、椅子が数列並んでいた。 その ほぼ最前列中央に間章の母上は座っていた。 会釈するあらゆる人たち全員に40年間鍛え抜いた微笑みを返していた。
  『このライヴは、間氏の「レコードはただの記録だよ」という言葉に従い後の記録販売は一切なく、 奇跡的な即興、共演空間を存分に体験してくれ』 とゆうようなふれこみの割には映像記録屋の性なのか、 狭い会場に2台のビデオ撮影機がデンとセットされていた。 私はドリンクカウンターへの行きと、帰りで その三脚に思わず足が引っかかってしまった。 真面目なカメラマンに行きは愛想笑いで、帰りはキッとにらまれた。

  間章と音楽の議論はほとんどした覚えはない。それでも間章の言葉は私なりに理解できた。
 『音楽において演奏者にもプロデューサーにも観客にも批評家にも絶対に特権がないのだ・・・』
 この言葉に私も同感だった。
 呼びかけ人、演奏者、集う人(観客)この三者はそれぞれの地平からやってきて、あたかも祭りのような三位一体の『場』を造る。
  即興は三位一体の呼吸と一音一音の響きのはざまに新しい陶酔と覚醒を螺旋状にやり続ける行為だ。 それは楽しくも奥深く、 哀しくもラジカルな『時』となり、硬直し、囚われた意識を解放(ときはな)し、『むき出しの存在』と深くインスパイアーする『場』ではなかったのか。

  集まった人たちは半分以上が中年を超えていたが残りは若者達のようだった。
  暗くなり、頭の薄くなった人物がゴソゴソと胡弓を取り出し演奏を始めた。 だっ、誰だろう。胡弓でクラシックからクリスマスソングを奏で、それからドラムをたたき始めた。
  豊住芳三郎だった。 24年間は人間の姿を変えるものだ。  それから、 ”あくの強い顔”で電気トランペットを吹く 近藤等則と、若いときからすでに仙人のようで24年間の歳のずれを感じさせない土取利行だった。 後から聞いたのだが演奏者の中で彼が一番若かった。
  土取利行はジャンベ太鼓を又ではさみ ”三度呼吸をととのえて” から、 素手でたたき始めた。 その音はストレートで根源的懐かしさを含んでいた。
 これらはアーチスト一人一人による前菜だった。 中若年は24年前に死んだ間章を知らない。 観客の戸惑いの中での始まりだったが土取利行に若者の拍手が多かったように思う。 そしてそれは健全な反応だった。

  それにしても、高木元輝がいなかった。
  「東京のスタッフが数日前から高木元輝と連絡が取れない」とアキラの掲示板に書かれていた。
  高木元輝は今回のアーチストの中で最高齢だった。  しかし最近の東京でのライヴでは老獪な新しい境地に住み始めていると伝え聞いていた。  どんなにバックの奏者が激しく感情を高ぶらせても高木元輝自身はゆったりと深くひろがりを持った音で一つのテーマを反芻するように展開していたという。 それは豊かなサックスの音を通して『既知の存在 』との関係をずらし続ける演奏だったのだろうと私は勝手に想像していた。
  私にとって、新潟での高木元輝の生演奏は『自由空間-新潟現代音楽祭』以来30年ぶりの再会であり、期待していた。
  しかし、『数日前から高木元輝と全然連絡が取れていない』という。

私は一瞬、高木元輝を疑ってしまった。  高木元輝は旧マンハイムでの『間章』の名を冠した今回のライヴを土壇場で 『拒否』したのかも知れない。 悪く言えば土壇場で 『逃げた』のかも知れないと思った。

  老い 『速さとテクニック』 を遠ざける。
しかし高木元輝も『むき出しの存在』とシンクロしインスパイアーするときは、もはや『速さとテクニック』など問題ではないことは充分知っていたはずだ。

  アーチスト一人一人による前菜が終わり、 青山真治監督のAAパイロット版が20分ほど映され休憩になった。
  外へ出る途中、受付カウンターにアーチスト関連CDが積まれ販売されていた。 崩れたCDの隙間の下から 『高木元輝、急逝』 のワープロ文字がチラリと見えた。 慌ててCDを払いのけ若き受付女性にたずねると、数日前から部屋で一人死んでいたという。 病であれなんであれ高木元輝は死んでいた。 (こういう掲示文はせめて”手書きの文字で”表して欲しいと願うのはオヤジ感覚か。)

  私は 30年前のショックと同じく ”やられた!” と絶句した。 高木元輝は私の想像を超え『拒否』したのでもなく、『逃げた』ものでもなかった。

  それは間章が望んでいたことではあるが、 高木元輝は老獪な非在のパフォーマンスで参加し、 このライヴを救った。
            ( しかし、高木元輝さん、これは 「最後の切り札であり、禁じ手」
                 だったのではありませんか!?
・・・・・・・・・合掌 )

  左のドラムセットに豊住芳三郎、右のドラムセットに土取利行、真ん中に電気トランペットの近藤等則、雪降る窓の外に高木元輝を配し、観客を巻き込んで2部の演奏が始まった。
 演奏が始まるとすぐに会場の意識は高まり、ベテラン3人の意気のあった演奏は一気にハイレベルに達した。 どよめく爆音は体力の限界までそのテンションを持続した。  間章の名を冠した『マンハイムさよならライヴ』 にはふさわしい演奏だったし、充分それを満たしていた。 そして母上は満足していた。 

  しかし、そうではあったが、 豊住芳三郎は未だ老獪さを模索中だったし、間章死後、新たな 『音世』 を求めていた土取利行は なぜか、ひさしぶりのドラムセットを叩いて呼吸を乱した。 聡明な近藤等則はトランペットを口から放し、 うかつにも『言語』を発してしまった。
 『皆、間章が死んだのは24年も前なんだ、もうお通夜じゃないんだから、もっと元気出して楽しもう!』
  確かに奏者3人の怒濤のパッションに比べて新潟のマンハイムにつどったもの達の見かけはおとなしかった。  とはいえ新潟の聴衆は24年前の時に戻り十分暖かかったし、 激しく高揚した3人の魂をもしっかり受け止めていた。
  間章を知らない若者達は激しい即興演奏に言葉を忘れ、間章を知る者達は24年前を追体験し時を忘れた。  

  確かに、その演奏は24年前の『時空』すなわち『間章の踏破した地点』に到達していた。

  しかし、そうではあったけれども、 さらに、24年前の『地平』を超えるものではなかった。  新潟の私達聴衆は間章を踏み越えていくものを共感したかった。

『間章が予感し、または間章が予感し得なかった』世界との新しい回路、己を開き『むき出しの存在』と豊かに触れ合う『技』と、新たな季節の渦を共に生み出したかった。
  雪降る新潟が少し寒すぎたのか、日本海の海鳴りが微かに間章の呪文を運んできていたのか、それとも何かほかの『呪縛』が緩慢に被っていたのだろうか。

  24年前の『間章の踏破した地平』を超える事ができなかったといっても、間章の名を冠したこのライヴを貶(いやし)めるものではない。 
  このことは、逆に『生きていた間章』 、『生身の間章の存在』がいかにアーチストの全存在を共振させ強烈にインスパイアーさせていたかの証しである。
 このことは、 『生身の間章の存在』、その『生身のプロデューサーの修羅』がどれ程『むき出しの存在』に根源的に肉迫したかったのかを理解させる。 そして、その『生身の間章の行為』は当時、確かに誰よりも『存在のふるさと』に接近していた。

  『間章』の思春期に夏の新潟海岸を眺めていたもう一人の怪物がいた。『間章』より1つ若いこの破天荒の天才はオギノ通りや西堀通りで『間章』とすれ違ったかもしれないが、ついに触れ合うことなく二人とも鬼門に入った。
  『間章』に遅れること13年目の初夏(1991年7月12日)、日本で最もイスラムを理解し、慈しんだ天才はイスラムシーア派の刺客か、またはイスラム イランをおとしめるCIA工作員によって殺害された。

  この新潟市生まれの破天荒の天才、五十嵐一(いがらし ひとし)の言葉がある。
  『目の前に一人の人間が出現すれば、それだけでも世界は変化する。その変りようを全人格的にうけとめて、自分も変化の渦の中に巻き込まれることを厭わない。「ここに、今」こそすべてという態度・・・・・・』
  これは、良寛と貞心尼の出逢いについて五十嵐一が述べた言葉だ。

 

 パフォーマンスにおいては 呼びかけ人、演奏者、集う人(観客)この三者にとって『一人の人間の出現』とは各々の三つ巴の他者である。

  『目の前に一人の人間が出現すれば、それだけでも世界は変化する』、それでは 『目の前の一人の人間の非在は、それだけで世界を固着する』だろうか。 
  私は死の4年後の『間章出版記念追悼会』で『生身の間章』の非在がいかに関連アーチスト達のインスパイアーをあっけなく鈍らせていたかをまざまざと見てしまった。(参:追悼の会での松岡正剛の文章
  東京の小さなライヴ空間で追悼会はあった。 蛇足ではあるが私は数人の女性に囲まれた坂本龍一と同じベンチ席に座らされた。 その会で間章関連アーチストの演奏があったのだがほとんど覚えていない。 大半の演奏は驚くほど精彩を欠いていたし、 形は即興なのだが何か全て手探り状態に戻ったように感じていた。 たった4年で、早くも時代が間章を過去のものとして封印しはじめていた。

  最後のベガーズバンケットの演奏は覚えている。 身びいきで覚えているのではないが、そのころのベガーズはロックを完全に超えていた。 会場にいた連中はほとんど新潟のベガーズバンケットなどは知らない。 しかし、その演奏は間章の死を真っ当に引きうけ、ひるむことなく、媚びることなくハイテンションでガンガンと終わりなく続いた。 私の4人隣の坂本龍一はもうウンザリという顔をしていた。 天下の坂本龍一を徹底的にウンザリさせたベガーズバンケットはあっぱれと言うほかはない。

  『批評家間章』を常に土俵きわに追いつめ続けていたアーチスト達がいた。 若いアーチストの一見稚拙だが、根源的な問いに、間章は決して逃げず、がぶりと四つにくみ、誠実に答えていた。 
しかし、間章は1978年12月12日に突然うっちゃりをかまして逝ってしまった。

 サングラスとジーンズジャンパーとかかとの厚みが5cm以上もあるブーツをはき、なにやら金属類をジャラジャラと身に着けたロックバンド(ベガーズバンケット)を『間章』が紹介してくれた。 私はステッペンウルフやジェフベックやGFRのポスターなどをやっていたのでそんな彼等のイデタチには驚かなかったが、地方新潟の日常では彼等の雰囲気は完全にはみ出していた。

そのスタイルはずいぶん決まっていたので、デビュー前の東京のロックバンドでも『間章』がつれて来たのかと思っていた。

ベガーズバンケットはそんな勇姿の割にはシャイだった。『間章』の横にいた18歳の彼らは私に会釈はしたが口もきかなかった。 それでもいやみなツッパリは感じなかった。 しばらくして、演奏中に消火器を撒き散らし、その公共ホールから訴えられたと聞いた。

彼らの高校(間章の母校)のバンド時代に突然『間章』がたずねて来たという。 それ以後 『間章』が新潟にいる時や他のイベントの時は常に一緒だった。

『 間さんは、”そんな時” どんな気持ちなんですか?』 と彼らは口癖のように問い続けていた。 彼らは『間章』のあらゆるパホーマンスの時の『気持ち』に接近したかった。 それこそが目の前の『間章』を理解する彼らの確かな手立てだった。 彼らを目の前にして『間章』の衒学的な話し言葉は通じない、解りずらい言葉はさらに突っ込まれて彼らに問い返された。
 彼らは自ら近づいてきた不思議な存在、『間章』を直感的に受け入れてはいたが、かかわればかかわるほどその不思議は増え続けた。  彼等はその不思議こそ一番大切なものに感じていたのだろう。

冬でもないのに手袋をしていた。 五本の指先だけ毛糸がなかった。指を食うのを防ぐための手袋だが、結局食いちぎり樹木希林のババ手袋のようになっているのだと彼女が話してくれた。 私も小学生のころは鉛筆の後ろや爪を噛み切ることぐらいはあったが、彼等は指を食いちぎるという。

彼らは道具を媒体せずに自らの身体で自らの肉体を食っていたのだ。その指が出血しても、痛くてもなお無意識に食い続けるという。

 『 間さん、 俺たちでもわかる言葉でしゃべってくれ。』と彼らは指先から血を吐きながら何度でも言った。   そのたびに『間章』は自分自身に向き合わざるを得なかった。 『間章』は自身の話し言葉をもう一度模索し、反芻しながら誠実に答えようとしていた。

『間章』と連れ立っている彼等は屈託はなく、時々あの黒い巨体とじゃれあっていた。 そんな時、『間章』も笑っていたし、寒い駄洒落も言った。 
 はたして、間章のまわりの他のアーチストや批評家や学者たは『間章の考え』を詮索するが、『間章の気持ち』を本人の目の前で問うた者たちがいただろうか。  

 ベガーズバンケット、彼らこそが 『 間章の心と、その肉塊 』 へと具体的に入り込もうとした者達だ。
 
 『間章』のがぶりと四つに組んだかかわりは指を喰らうという彼らの自食行為(リスカットイート)を昇華し、 また、彼らは『間章』に短くも深い至福を与えた。

         (ベガーズバンケットのことはぼけないうちに何れ・・・・)


  『マンハイムさよならライヴ』 この呼びかけの言葉こそ演奏中の3人に揺らぎをかけていたのだ。 爆音を吹き鳴らす近藤等則の無意識はこの揺らぎに少しいらだっていたのかも知れない。

  『自由空間』、『陸封魚』、『位相空間』、『割れた鏡』、『なしくずしの死』どれをとっても解りそうで解らない間章の『言葉』。
  演奏が始まれば、『言葉』、タイトルよりも中身だ、タイトルなどパフォーマンスで簡単に凌駕できると考えるであろう。 『間章』は言葉の定からも自由でありたいと思った。

  三者
には特権はないが、意思はある。 『非日常空間』を社会、『日常空間』の只中で起(た)てるには、囚われない『意思』と『装置』がいる

  『マンハイムさよならライヴ』 はあまりにも素直な『言葉』でストレートな『意味』だった。 だから皆かんたんに『恋に落ちて』しまったのだが。

  いつかは忘れたが間章の部屋か喫茶店で、『読むかい?』と言って間章の書き上げた原稿用紙の束をわたされたことがある。 ところが、私は二、三枚めくってウンザリした。 内容の解り辛さはもともとだが、
文字の下手糞さに仰天した。  私も汚い字には自信があるが、本当に私の比ではなかった。
  文字を判読しようとすると、 文章理解に集中できず、 内容を把握しようとすると字面は抽象画となった。 イライラした私は今は読む気がしないといって丁寧に突っ返した。 
  私はその時、渦巻く深海を覗き込むような間章の『文章表現』をようやく理解できた。 間章の『文章』は一つ一つの熟語は私でも解るが、その集合体は到達点の決して見えてこない衒学的な文体だった。
  それはアンディウォフォールのなかで私が一番好きなミックジャガーのシルクスクリーンの作品と似ていた。
  その絵はいつ見てもミックジャガーだし、逆さにしても斜めにしても、まぎれもなくミックジャガーと即座に判断し、イメージすることができる。 しかしアンディウォフォールはミックジャガーの顔の輪郭や目鼻をその上から一筆書きのように勝手になぞった。
  その線は非常に絶妙で、 私達の視線はミックジャガーを見ているのだがどうしてもその一筆書きに引き込まれ、それをなぞってしまい既知のミックジャガーを見失う。  逆にウォフォールの手仕事の線を見つめていると既知のミックジャガーがでしゃばってきて、私達の意識は定まらない。 
  このずれはいつまでも続き、しまいには奥歯の噛み合わせがうまくいかない感じに襲われ、喉が渇いてしまう。
 間章は『既知の言葉』にも絡めとられることなくラジカルでいた。そして、『衒学的な文体』『仰天するほど下手糞な文字』で『既知の言葉』の裏をかき、その全体で『むき出しの何かを』伝えたかったのだ。

  既知の社会的『言葉』をねじ伏せ、ずらし続けても、さらにその『言葉』の奥深く私達が囚われ突き動かされる地下水脈がある。

  先に書いたが、誰ともなく湧き上がったと言う『マンハイムさよならライヴ』 この言葉こそ 『間章、御母堂の無意識』  の顕現であった。

  さよならライヴに関わる全てのもの達があたかも自分の自由意志と思いながら、嬉々として 『間章の母上の無意識』 を組立てマンハイムに集った。
  この『母上の無意識』 こそ ”見えない真綿の鎖” であり、『恋に落ちたように』からめとられた本人達は気づくことなく囚われの時空を生きる。強弱はあれど、私達はいとも簡単に他者を生きてしまう

  『間章、御母堂の無意識』 とは我が息子の『鎮魂』であり、『母』自身のわだかまりの『昇華』であり、『我が息子、間章の魂』『封印』であった。
  『息子の借用書の束』を許し、良き息子として母上は満足し『息子の魂』を『封印』し無害化してしまう。
 ライヴは終わり皆シャンシャンと手をたたき、間章の御母堂の『鎮魂の儀式』と『封印』の手助けをしてしまったのだろうか。

  『間章の御母堂』を非難しているのではない。 これは『母 』の真っ当な『役目』であり、 『母 』の立派な『仕事』なのだ。 私達は日々『制度』の中で各々の仕事を一生懸命やっているだけなのだ。

 この”見えない真綿の鎖”からも囚われることなく自由になれと間章は言っていたようなのだが。

  生前、幼い時から父の酒席へよく連れ出され、店の中や外で宴の終わるまで、ただ待っていたと話した『間章』は同年の私よりはるかに世慣れていたし、大人びているように見えた。
 そう感じていた20代の私は、未だ、母の”見えない真綿の鎖”に気づかず、あたかも自分の意志のごとく”その真綿のDNAの連鎖”を生きていたが、 ようやく『夢の中』で、甘い綿飴のようなその『巨大な鎖』の中へ分け入り始めていた。 
 そして、 30才目前の私は、その”見えない真綿の鎖”の微かな尻尾を捕まえたと思った。 調子にのり、嬉々として見上げてみと、”真綿の鎖の雲”は果てが見えず、あまりの巨大さに愕然とした。それは銀河群の泡の連鎖のようで、はるかに想像を超えていた。 未だにその雲の名付けの作業は続いている。

  果たして、思春期を過ぎた『間章』は母の”見えない真綿の鎖”を射程におさめていたのだろうか。 

  『間章』の根源的欲求もかかった。  そこらの借金も踏み倒して逝ったかも知れない。
  その欲求のほとんどは『間章』の母上の手元に 『借用書の束』として遺った。
  『間章』の父上は私も仕事でお会いしたことがあるが、市中心部の不動産屋で、母上はマンハイムを経営していた。 『間章』の欲求が高まれば当然『借用書の束』は厚くなったが、 母上の懐は深かく暖かかった。

  『間章』は甘えていたのだろうか。 『間章』は母上に『依存』していたのだろうか。
 事実、『間章』はやすやすと甘えていたのだし、『間章』は母上に『依存』していたのだ。

先に私はこう書いた。
  『家族の真綿の鎖』 を断ち切って”自立”しなければならないと思いこむことは、一つであって十ではない。

 『仕事をした者』はいつの世も誰かに『依存』している。
 
ファン・ゴッホは弟テオに、宮沢賢治は父政次郎に無心した。
  良寛は『生存』の全てを『托鉢』を通して越後の村人達に『依存』し、それを全うした。

  ライヴが終わって、 母上に近づいた私は『お母さまいくつになりなした?』とたずねた。 椅子の背につかまりながらようやく立ち上がって恥ずかしそうに 『八十を越えていますて』 と答えてくれた。 以前は働いていたせいか女性としては大きく堂々と見えていたが、間章を産み落とした股間は湾曲し、二回りも小さくなって見えた。
  即興演奏の爆音の目の前で80を越えた”老母”は 2時間半もの間 『良く耐えぬいた』と普通なら書くべきであろう。
   しかし、息子と娘の地獄を越えてきた、この母上は二組のドラムと電気トランペットの鼻先に陣取り、ドラムの大音響を平然と受け止めていた。 そして、近藤等則の電気トランペットの雄叫びを全て吸い取り、 最後まで疲れなど微塵も感じさせなかった。  さすが『恐るべき間章の御母堂』といわざるをえない。

  そして、間章は 『この恐るべき御母堂』 と思春期まで一つ屋根の下にいたのだ。

 

 

  この『御母堂の無意識』 からも、雪の新潟の『寒さ』からも、『間章の究極の思惑』からも自由なアーチストが一人だけいた。
  かのアーチストは『間章の鎮魂と封印』を阻止し、『聴衆の覚醒』を促し、かつ『間章の裏』をかいた。

 

  『音楽において演奏者にもプロデューサーにも観客にも批評家にも絶対に特権がないのだ・・・』

  問題は 『意味づけられた社会』、『日常空間』 の只中で、『名付けられない時空』、『非日常空間』を起(た)てるには、囚われない『意思』と『装置』がいる。  そうでなければ、簡単に『日常空間』に意味づけられてしまう。

  たいていは、浅はかなインテリ プロデューサーの『啓蒙』か、自由というただの『烏合の衆』と化し消費され無害化される。


  私は阿部薫の演奏を青山のホールで聞いたことがある。 始めて聞いてそれが最後だった。  しかし演奏の音色はどうやっても思い出せない。  ”アカシヤの雨”もやったのだろうが思い出せない。

  スティーブ・レーシーの演奏は吉祥寺あたりの狭いライブスペース(曼荼羅1975/6/8)で聞いた。 『間章』はわざわざ私にスティーブ・レーシーを丁寧に紹介してくれた。 さらに、目の前でサインを書かせたレーシーのレコードをくれた。
  口ずさめと言われてもできるわけがないが、ステーブ・レーシーの即興の音色は良く覚えている。
  どちらも一人の演奏だが、ステーブ・レーシーは音色があって、阿部薫には音色がなかったということか。 少なくとも私一人であれ、そう感じていたことなのかも知れない。

  ステーブ・レーシーの一音は次の一音で私の期待を必ず裏切った。 どんなに先回りしても次の音は私の感覚を超えた波の音がやってくる。
  私の予感、慣れ、情緒、鼓動までもずらし続け、終わりまで目覚め続けざるをえなかった。 それは、ステーブ・レーシー自身の慣れや記憶さえもはずして行こうとする努力であった。 ステーブ・レーシー自身が己を拓き世界との新しく、奥深い関係を築く 『技』 を日々誠実に磨いていることが解った。

  私は次の音色の先回りをあきらめ、スティーブ・レーシーのひらかれた『技』と『音色』に身をゆだねた。 
  私は今でも、このライヴと出会えたことを『間章』に感謝している。それは本当に静かで美しかった。

  阿部薫には音色がなかったのか。 私はそのライヴで『間章』と会わなかった。終わってもそのまま外へでて日常の現実世界に触れ、大きく深呼吸していた。
  私は阿部薫の音色は聞き忘れたが、阿部薫の『演奏』が解った。 解ったとはいかにも70年代的で馬鹿にされそうだが。
  阿部薫の『演奏』は舞台に一人で立っている。 テンションが上がってくるとじわじわとその演奏は異様になり、この世の音と思えない波長となる。 それは演奏が異様になるというより、奏者阿部薫が本当に狂いだしているようだった。  その音もまた、全て私の予感を裏切った。  慣れた観客は阿部薫にそれを期待し陶酔した。 
  しかし、阿部薫の本当の凄さは、どんな観客の期待も確実に裏切り、次はもっと深く、もっと激しく狂い続けていたことだった。 しかし、これでは、行き着く最後には、舞台の上で奏者阿部薫が本当に『発狂せざるをえない。それは哀しい予感だ。
  『間章』の望んだものは、『その非日常空間』に集う三位一体の三者等が自らをひらき、『むき出しの世界』に深く触れ合い共有することだった。
  状況は、70年代当時はそこまでで精一杯で、その先を抜けた『創造』へのステップを誰もがまさぐっていた。 ただ、ステーブ・レーシーの薬指がようやく一本そこに引っかかっていたのかもしれない。

  大半の演劇、演奏会は終了後、『その非日常空間』の各々の感動と驚きで包まれた楽しさの記憶は安全にペットボトルのお茶のように『日常空間』に持ち出され次の日には消費され捨てられている。

  『間章』は阿部薫を『何度でも地獄に突き落とす』といい、そのパフォーマンスを『なしくずしの死』と言った。 『間章』は阿部薫に『発狂』寸前の境界で演奏することを望んでいたのだろうし、 そして『間章の究極の思惑』は舞台演奏中に奏者が『狂い死に』することだったのだろう。
  私の印象は舞台の上の阿部薫は本当に『狂い』始めたのかと迷うほどだった。

  奏者が『発狂』あるいは『発狂死』の限界に近づけば近づくほど、観客各々は陶酔から覚め始め、いらだち 『戸惑い』始める。 ついに会場はざわめき、観客の『日常の境界』を超えた時、 いたたまれず観客達は『誰か救急車を呼べ!』と叫ぶ。

  この境界の『戸惑い』こそ、『覚醒』への揺らぎであり 、『その非日常空間』が『日常空間』と連結し脅かしている証しである。 
   救急車は『制度』を満杯に積み込んで、『その非日常空間』になだれこんで来る。 救急車は奏者阿部薫を『狂人』、あるいは『死体』命名し『日常空間』に運び去り、『モルグ』に安置する。
  観客は『徐々に訳の解らない存在となった阿部薫、すなわち『名付けようの無い存在』、または『むき出しの存在』を救急隊の『分類』で一安心し、外の『日常空間』に帰ってゆく。 しかし、その『戸惑い』を飲み込んでしまった観客たちは何か己の背に寒々としたものを感じ襟を立て続けるだろう。
   間章が『寒いかい』と言って、たたいたその背中には、忘れかけていた言葉が 仰天するほど下手糞”な文字で書かれている。
  ”仰天するほど下手糞な文字”はなかなか解読しずらいが、よーく見るとその文字は『モルグ』のようにも 『モータル』(死すべきもの)のようにも見えている。





  かのアーチスト高木元輝は『マンハイムさよならライヴ』の数日前に亡くなった。
  この高木元輝の『非在』、この『禁じ手』のパフォーマンスはたった一枚のワープロ文字で私達に深い『戸惑い』と、『覚醒』への大きな揺らぎを与え、 演奏中の奏者の『死』、すなわち『間章の究極の思惑』をも老獪に裏切り演奏当日前(12月10日)に亡くなった。

  高木元輝は『最後の切り札』を切ってこのライヴを救い、『間章の予感』を超えた。

  今頃、高木元輝は『間章の新生』を求めて、『鎮魂と封印』を阻止すべく、『御母堂の無意識』よりも素早く奈落のそこを駆け下りている。

  佐渡沖の深海に横たわる間章の耳もとで、かのアーチスト高木元輝がサックスをブオーと吹いているだろう。  間章は 24年間のヘドロの詰まった鼻の奥を以前のように”クスン クスン” とならしながらゆっくりと目を開け始めている。  高木元輝はさらにサックスを吹き続けているだろう。


  荒れ狂う冬の新潟海岸に立つと、怒濤の沈黙の一瞬に微かに”深海の汽笛”が聞こえている。









間章が死んで24年目の今、世界は大きく振り切ってしまった。 
  パンドラの蓋は開けられ、悪と正義、西と東、右と左が結託し、経済は破綻し、2000年以後を書き記した『予言の書』はもはや世界のどこにもない。  政治も経済も宗教でさえ狼狽しはじめている。

 『日常』は間章の思惑をはるかに追い抜き、現実が混沌を呼び込みはじめた。
  間章は極北を目指し、『どうだ寒いかい』と言った。
だが、今を生きる私達はたどり着いた極北の果てで、 なんと!暖かく溶け崩れる大氷河を発見し立ち尽くしている。

  間章は『人類の未来などどうでもいい』、『なしくずしの死』をと言いながら、結局は『全てを取り払った丸裸の人間』同士を深いところで誠実に『紡(つむ)』ぎ直そうとしていたのかも知れない。
 それは、過激で、衒学的な姿であったが、実は全くオーソドックスな行為だったのではなかったか。

 生きている私達は日本海の深みへ降り、水底に横たわる『間章』のふっくらした腹を蹴り上げ、高木元輝の”深海の汽笛”を聞きながら『歌い』、『舞い』、『描き』続けなければならない。







追記

  休憩時に土取利行さんと話した。 私の描いた 『カマドウマン』 を持っていると言った。 私は『カマドウマン』 をライヴのポスターやチケットに使った記憶が全くなかったのだが、『カマドウマン』 を大事に遺してあると言う。
  『カマドウマン』 の原画は手元にあるのだが印刷物は一つも残っていない。 土取利行さんのところで大切にされていたと思うと、あんな形でも『カマドウマン』 も生まれてきて良かったと思えてきた。
  二十歳後半の私は『インランド フィッシュ』『カマドウマン』『イザナギ』など冥界と地上をつなぐもの達、無意識と意識をつなぐもの達を知らずに描いていた。(『カマドウマン』 はカマドウウマと人間が融合しているもの。)

  描かれた生き物達は未熟者だった。 未完の生き物のまま 『無意識と意識』 を行き来していた。 冥府との関わりは危険だった。 本人が気づかぬまま、骨が見えるほど肉体は擦り減り危機にさらされていたし、 最後はその境界の混沌の雲の中で哀しく虚ろに立ちすくんでいた。
  まさに当時の私自身の状況が描かれていたといわざるを得ない。 
  私は間章や吉沢元治のためというのではなく、私自身のためにそれらを描いていたのだが、職人気質の吉沢元治は細かい『作業』を認め、間章は『全体』を気に入ってくれたようだ。

 私は同時期に『夢』をノートに記録し始めていた。その記録は増え続け、ようやく夢の古井戸から混沌の断片を汲み上げ、それに『名』を与えることができつつあった。 それは世界の霧が少しずつ晴れてくるようだったし、絶対に見えなかった私自身の『真綿の鎖』も徐々に見えはじめてきた。

  それにともなって、冥界と地上をつなぐ『融合生き物』を描くスピードが何故かだんだん遅くなってきた。そしてある時、新しい『融合生き物』作品が『間章』のポスターに間に合わず穴をあけてしまった。加古隆、坂本龍一、豊住芳三郎の写真が四隅で、絵を入れる真ん中が真っ黒なポスターになってしまった。 『間章』には悪いことをしてしまった。
  しばらくして、私はほとんど絵を描かなくなった。今も『融合生き物』群を描いた未完の作品が数点色あせて手元にある。

  『間章』はルドルフ・シュタイナーに接近しはじめていた。 私に出たばかりの『世界観としての建築 ルドルフ・シュタイナー論』(上松祐二)を紹介してくれ、私はドイツ兵のヘルメットのような初期ゲーテアヌムにはまった。
  代わりにという訳ではないが、『間章』は私の本棚から 『ジャコメッテイとともに』(矢内原伊作)を見つけ 『これは発禁本になった本だ と言った。 ところが、フムフムと言いながら私の知らないうちに黙って持ち出していった。 (間章が亡くなってから奥様が返してくれて手元にある。)

  私は、あのころはまだ全くマイナーだったユングの回路を通して『夢』の世界に没頭しはじめていた。 『間章』は東京でのイベントや海外での時間が多くなり少しずつ疎遠になってきた。
  ある日の夢に『阿部薫』が出てきた。 どこか北の街の演奏会のステージで相変らず跳ね回り演奏している。 楽屋か袖に数人いるが、誰なのか良くわからない。 観客もやたら元気良く騒いでいる。会場は収拾がつかないほどだ。 記録を出せば詳細はわかるが、こんな夢だった。
  それから4日後(1978-9-9)『阿部薫』が死んだと聞かされた。

これは予知夢だったのか、 あるいは、私の活性化した無意識の噴出だったのかは解らない。 ユングは『夢を解釈するな、味わえ』と言っている。
  『夢の解釈』無限だ。 それでは全く意味が無いし、科学的でないと思うが、 本人がその無限の中から意味あるものに気づいてゆくだけなのだ。
  もともと『存在(自然)』なども、無限で意味は無いのだ。私達はその無限の中かで浮き草のように身近なまわりを意味づけ、安心して『日常空間』を生きているだけだ。

  振り切ってしまった21世紀の今は
意味づけ、安心してきた世界に間章が投げた『戸惑い』の雪球がはるかに巨大となって彗星のごとくめぐってきている。 もはや、『日常』は間章の思惑をはるかに追い抜いてしまった。
  『戸惑い』の裂け目に覆われた現在は、『全てを取り払った丸裸の人間』となり、『むき出しの存在』の只中で、全く、新しく『意味づけ組立て直す』勇気を持つときにきている。

 

  それから3ヵ月後、たたみ込むように『間章』の悲報を知った。
 オギノ通りで別れを済ませていたのか。 『間章』は私の夢には顕れなかった。 

  私はオギノ通り ”びいどろ”という喫茶店の先を西に向って誰かと連れ立って歩いて行く『間章』を見つけた。 その後姿に声をかけようと思ったのだが、通りの向こう側で、声が届くには既に遠すぎた。
 なぜか私は、街路樹の木漏れ日の下を歩く 『間章』 の姿寄居町の角を曲がるまで見続けていた。 そして私にとって、それが『間章』の最後の姿だった。
     (それは、黒の帽子と黒い服ではなく、夏スタイルの白い帽子と白い服だった)



  あれから四半世紀が過ぎた。 私は全く絵を描いていなかったが、数年前から俄然『絵』を描きたくなり、少しずつ手を動かし始めた。『融合生き物』はもはや描かない。

  土取利行さんにどんな絵かと聞かれた。私はしばらくして『真っ当な絵』と答えた。 土取利行さんはさらに『真っ当な絵』とはどんな絵かと静かに問う。
  私は『ウーン、言葉にするには難しいのでやはり、真っ当な絵だ』と答えた。禅問答はここで途絶えたままだった。



サヌカイトや縄文やラスコーやアルタミラにも『存在の秘宝』は確かにあるであろう。

  しかし、己をひらき、『存在』に深く触れあおうとすれば、『むき出しの存在』は必ず答えてくれる。

  私達は西堀通りの ”雪に揺れる柳の芽”やそこに集う ”ヒヨドリの声” や蹴飛ばした ”小さな石ころ” の中に充全な『存在の秘宝』を見つけるであろう。

私達は、いま産み落とされ、湯気を立てる野犬のフンの中でさえ『150億年の奇跡』の息づかいを感じることができる。
  『存在の奇跡』は、雪降る西堀通りのいたるところで『小さな爆発』(五十嵐一)を繰り返している。

  今、ここに、昼であれ夜であれ『存在の秘宝と奇跡』充満し、輝いている。
  私達は、それで
十分であり、今まさに、驚愕する『奇跡』の只中にいる。 これ以上特別な『奇跡』など待ち望む必要はない。

  中島敦の『必然と自由の等置』を記す。
『所与を必然と考え、必然を完全と感じ、またその必然を自由とみなす』



  『間章』は病で亡くなっている。 過激で,衒学的に見えた『間章』は決して『存在』を呪っていたわけではなかった。


  私は今、この『厳しくも豊穣な存在』を愛で、『歌い』、『舞い』、『描き』 続けて行こうと思っている。

 




                                    2003年1月
                                                志賀恒夫

”深 海 の 汽 笛”  (間 章 が 半 夏  IA -番外編 『ライヴ12+12=24/間章』 )
カマドウ ヘッド
イザナギ
F
土取利行氏HP
スティーブ・レーシー
Born:July 23 1934 in New York
Died:June 4 2004 in MA
スティーブ・レーシーと
間章(右)
(半夏舎パンフ)
煉獄のカマドウマン
H
『モルグ』

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間章ののライナ−ノ−ツ
間章(あいだあきら)
珍しくサングラスではない
(27才)