インランド・フィッシュ
間  章  が  半  夏
間  章  が  半  夏
インランド・フィッシュ
演奏者:吉沢元治(b)、
     豊住芳三郎(ds)
トリオ PAP-9020:オリジナルLP 
再発:クラウン BRJ-4025


吉沢元治のベース・ソロ
1974年9月13日 新宿安田生命ホール
E
D
C
B
A
  便器一面を鮮血で染めた私は、地を這うように ”府中医王病院” に一人でたどり着き、入院した。 翌日、ミルクを浸した耳のない食パン一枚が皿の中で浮いていた。  そんな朝食は覚えているが、 水さえ口にすることも、窓の外の雲にさえ焦点を合わす気力もなかった。
 点滴の窓越しになにか黒い虫のようなものが飛び始め、 その羽音はだんだん大きくなり私をおおった。 その羽虫は次々に十数機のヘリコプターに変り、 病院上空を競うように旋廻した。

  府中刑務所北脇で現金輸送車が持ち逃げされたという、いわゆる未決の『三億円事件』である。 
 
 手術はしなかったがその代わり1日5本の点滴を続け、 正月をはさんで二ヵ月半も病院に世話になった。当時としては珍しく、担当医も一週間後に『カイヨウセイダイチョウエン?』だろうと言った。
  完治とはいえないが梅の花の咲くころ退院することができた。 当時の友人達は 『お前が犯人だろう』 と半分冗談で半分本気で言っていた。 事実、私は誰にも連絡することもできず、忽然と友人の前から姿を消していた。 

  当時、兄と同居していた私は錆びた自転車に白い塗料を塗り ”府中駅” に放り投げておいたし、 兄はホンダガブに乗り、白いへルメットで会社を往復していた。 隣の夫婦の車の
シートが盗まれ、 犯人はそのシートで盗難車の白いカローラを丁寧に覆っていた。 中には空っぽのジュラルミンケースが3本置かれていた。 数キロ離れた団地駐車場の片隅に中古シートをかぶったカローラは違和感なく静かに存在していた。 それ故、発見は数週間も遅れ警察は面子をなくした。
  怒り狂った警察は絨毯爆撃のごとく府中市を中心に数万世帯の聞き込みを開始した。 勿論、しばらくして私達兄弟のいた公団3階の鉄扉も、ゆっくり確実にノックされた。 私がサムターンを解除するや否や、刑事は ”黒いかかと” をグイと差し込んだ。 刑事のセオリーとはいえみごとな早業で、私は感心した。 壁に掛かったヘルメット、靴の数、ごみの果てまで一瞬にして生活情報を嗅ぎ取る目線と対峙した。 1階の白い塗料缶の追求は覚えているが、あとは記憶に無い。 二歩目の進入は許さず、ドア越しに数十分話しをしてお引取り願った。

  病院の便器を鮮血で染め続けた血の七日間を何とか耐えたぬき、その後、体力の回復に80日間かかった私の体は ”三億円事件” 同様、未だ解決することもなく病と共存している。
 
1968年(昭和43年)の私の病から10年後 突然 『間 章』(あいだあきら)は大地に ”あの巨体” を還すことになる。

  この
1968年(昭和43年) は、ベトナム反戦運動から、マーティン・ルーサー・キングの暗殺、東大安田講堂占拠、日大20億円使途不明金発覚、日大生自然発生的バリケード構築、全共闘結成、神田街占拠、新宿駅占拠、各種学校バリケード、少しずれ込んでミッション系大学に飛び火し、ついに来期東大入試中止へと、若者は怒り、荒れ続けた。 
  若者達は最初のデモは素手のまま飛び出し、訳もわからず警棒で頭を割られ、傷を押さえた十本の指は次の警棒で五本が砕けた。  その次のデモはヘルメットをかぶった。 今度は腹を蹴られ内臓破裂を起こした。 その次の若者達はプラカードの柄で応戦した。 いつか、ついにプラカードではなく角材のみを持ち始めた。 そうして、 ”自衛のため” というヘルメットにタオルマスク、角材を持った 『全共闘』 スタイルができあがった。 やられればやられるほど憎しみは増し、ますます若者はまわりを巻き込み怒り狂っていった。 翌年の東大安田講堂陥落(1969)にいたるまで 世相は騒然としていた。 時を同じくしてヨーロッパ先進国の若者達も同様に荒れ狂い破壊した。 

  2002年の人々は、エリート犯罪者の巣窟と化した官僚機構に、あれから累々と卒業生を送り込んできた ”東大安田講堂” に象徴されるものを思えば、当時の若者達の思想信条を差し引いても 、方法が稚拙であったにせよ  ”ぶち壊したかったもの” は十分理解できるはずだ。

  さらに アポロ月面着陸、大阪万博、三島由紀夫割腹(1970)、成田闘争(1971)は持続し、 仲間の12名をリンチ処刑した極限状況の 浅間山荘事件(1972、2月)で ”一見” 終息する。

  なぜ頭を割られても、指を折られても彼等は懲りずにデモに行くのか。 アメリカ、日本、大学、教授、理事、を批判することは分るが、それだけでは彼等の”魂の高揚”は理解できない。 

  ”お上”に逆らうことなど思いもよらずに、なんとなく育ってきた20代の私は彼等の衝動を何とか理解しようと思った。 これこそ彼等の思う壺だったのだが。
 日を増すごとに都内の騒乱も広がり日常化してきた。 気が付いた時は、ノンポリの私でさえ 時々、いろいろなデモに加わっていた。
  勿論、その中で真面目に思想信条で行動している若者は多かったと思う。 けれども、ソ連は存在し、毛沢東も生きていたとはいえ、思想信条だけであれほどのうねりは生まれない。  思想信条は個人差はあるが、そういうことを横に置いたとして、あれは世界的な若者の
『反抗期』だったのではないかと思えてくる。

  広島の原爆投下から20数年経った、戦後生まれの団塊世代の『反抗期』。 勝手に生んだ親への反抗、偶然生まれた社会への抵抗、 少し蹴飛ばしたら親も社会も以外にも、もろいと
『錯覚』 した。 あとは、子供にとって破壊ほど 『面白い』 ものはない。 
  若者達はアメリカにも日本にも社会にも石を投げていいんだ、そして
以前の自分自身にも石を投げるべきものなのだ、それは正当なことなのだと思い、体を張って力一杯に投げた。

  なぜ、彼等は官権に頭を割られても三日もすればまたデモに勇んで出ていったのか。 それは紛れもなく彼等も 
『面白かった!』からなのだと思う。 スーパーコンピューターが創造するどんな超バーチャルな戦闘ゲームより、 肉体を持って血を流し、石を投げ群集と本物の電車を止めること 『面白い』 に決まっている。 深夜の窓ガラスを全部叩き割る中学生に近い。 『面白い』 ことは良いことか、『面白い』ことは『面白い』ままだ。
  しかし、正しいと信じた理論に則って戦略的に暴れたものはいた。 絶対正しい理論はセクトの数だけあった。 絶対正しいと信じた理論は12人の仲間をリンチ処刑した。 殺人者の表情は解らない、 しかし、リンチ処刑され埋められた12人は絶対に
『面白く』なかったはずだ! 
 悲しい12名の若者は
『面白い』と感じた世界から『面白くない』と感じはじめた”とき”が以前どこかの時点であったはずなのだ。 自分の気持ちを正直に表し、もっと 『多様な世界』 に自分を向けなおすことが出来なかったのか。 そう思ったときは既に回りはそれを許さず、また自らも”正しい理論”の前で素直な感情を吐き出すことが出来ず、悩んでいたのか。

  戦後の落とし子の反抗期、さらに
若者自身のマザコンと対峙する時代だった。 日本という赤子が”終戦日”に生まれて、遅い思春期に自室のドアを蹴飛ばしたら ”簡単に壊れた” と思ってしまった。
 大戦を終え、生まれ直した世界の先進国の”赤ん坊”は同時に 『反抗期』に達していたのだ。  奥手の中国の若者達の『反抗期』はしばらく遅れた。 利用されたとはいえ、遅い『反抗期』はその分 ”半端” ではなかった。 

  有名な東大の ”たて看板” の絵はヤクザ高倉健の背中が描かれ、そこに
『止めてくれるな おっかさん 背中(せな)の銀杏が泣いている 』 と描かれていた。 これが全てを語っているように思えたのだが?。
 
『政治、社会の鉄の鎖』と戦い、故郷の『母(父)の真綿の鎖』とも戦わなければならなかった。 

  しかし、簡単にも
『母の真綿の鎖』を断ち切た、と自他共に認めたと思われた幹部達、 大学で、マイクを持って難しく叫んで煽っていた連中の数十年後は、驚くなかれ ”新興宗教の大幹部” や ”バブル成金社長” や ”マスコミ評論家” になっている。 『母の真綿の鎖』を首に掛けたまま時代を読む目は早い。  言い分はあるであろうが、今となってはあの姿はなんだったのか。  もっと、ややこしい話は、 故郷に戻どり、理想に燃えて本屋を開業したがアッと言う間に資本主義に弾き飛ばされ、開店時の善意の多くの借金を踏み倒し自分だけいなくなってしまった。
  『政治、社会の鉄の鎖』より、為政者と若者の両方の 『母の真綿の鎖』 を先にほどかなければならなかったのだろう。 しかし
『鉄の鎖』より 『真綿の鎖』 の方がはるかに強力だった。

  『社会の矛盾』 は見えても 『母(父)子の真の鎖』 は見えず、
資本主義は疑えても、母の無意識は疑がう余地などなかった。 社会制度としての家族(母、父)の位置を取崩したとしても、悪い母は悪いまま、厄介な普通の母は普通なまま、さらに厄介な良い母は良いまま、に無意識に刷り込まれ、その関係は思春期前に神格化されてしまった。
  薄皮を剥ぎ捨てて全てを断ち切ったと『錯覚』した若者は『真綿の鎖』をついに見いだすことができず、『真綿の鎖』に囚われのまま闇雲に動き、破壊する。 それほど 『真綿の鎖』は 手強かったのだ。 

  時代はどちらもウヤムヤなまま通り過ぎていったのか。 それとも 思慮深く、老獪な
アメリカの 『 躾け 』 に従ってしまったのか・・・・。

  現在の日本は、
マザコンの極致人 ”小泉首相” を頂いて、 アメリカともども 『なしくずしの死』という ”ミレニアム ハリケーン” が近づくのを待っている。 

  小入退院を繰り返していた私は、
1972年の初め大腸のレントゲン写真の束を抱え 『母(父)の真綿の鎖』 に引き寄せられながら故郷の新潟大学病院を訪れていた。 というより無意識に私自身が 『母(父)の真綿の鎖』  をさぐり寄せていたのか。

  雪深い山の中で、 銃を持ち 『マザコンの母』がリーダーの若者達がいた。 国家権力から逃げまどう極限の緊張に絶え切れず
12名の仲間を疑い処刑、粛清した。  浅間山荘事件1972年、2月に終焉し、 『いかれる若者達』は”一見” 終息した。

  しかし、その年に生まれた ”赤ん坊” があたかも二十歳を越えるころ、 私達は
アメーバーのごとく姿を変えた事件を孵化させてしまう。 密室の中で仲間を、他者を処刑した ”オウム真理教” はやがて、1995年(平成7年)3月20日朝、地下鉄でサリンをまいた。

  国家権力は
『母の真綿の鎖』 の効果を信じ、浅間山荘で彼等の母にマイクを持たせたが、母なる声は銃声音で空しくかき消された。 
  12名の二十歳そこそこの仲間を「総括」の名のもとに逃げる先々でリンチ殺害し、埋めていった。 その中で女の子は4人もいた、好きな男のために理論を勉強し、やっとついていったのか、 聡明で勝気な性格が災いして素直に引くことが出来なかったのか。  殺された若者達は、狭い限界を超えた心理的密度の中で自分を取り戻し、問い直す時間も場もエネルギーも無かった。 目に見える現実空間の不潔と異臭に気付かず、どこにいて何をしているのかさえおぼろで不安であったろう。  自らの不安と哀しみを正直に話した者 から先に、リンチを受け処刑されていったのであろう。
  
『社会の鉄の鎖』より はるかに強力であった 『母の真綿の鎖』さえも機能しない、カオスの住人となった”彼等”は光のとどかぬ深い闇をまさぐっていた。

  私はその事件を、退職後、絶対再就職しなかった父の部屋のテレビで見た。 父は時々筆を休めて画面を見いったが、何も言わなかった。 父は晩年習い始めた書道の先生(江川蒼竹)の言いつけを守り、癌で苦しい時でも毎日欠かさず黙々と筆を持った。
  私はその時
『父との真綿の鎖』 が少し見えたような気がした。 それはどの親も思ったであろうことだが、『浅間山荘の中にお前を入れなくて良かった、お前は自由だが、限界を超えたカオスの闇に迷い込むことを 私は恐れ、心配していた』 父はそう言っているような気がした。
  処刑された12人の若者は、自分の体力と自分の気持をコントロールできなくなる深い闇に迷い込む前に
『止めてください! おっかさん(おとうさん) 背中の銀杏が泣いている 』 と叫んだに違いない。
  最初の
『母の真綿の鎖』は 『お前のことが心配だ』 と言い、若者達は 『おっかさん、そんなことより、もっと大切なものがあります!』 と答えてきたが、 混沌の闇の入り口の前で、最後に聞いた『母の真綿の鎖』の言葉を思い出していたに違いない。

  
自らの不安と哀しみを吐き出すことは何も恥ずべきことではなかったのだ。

 
『止めてくれるな おっかさん ・・・』 と  『止めてください!  おっかさん ・・・』の間に浅間山荘事件 があるような気がしてならない。

  当時の若者は
 『母(父)の真綿の鎖』 を断ち切り”以前の自己を否定”し”新たに生まれ変ろう”と叫んできた。

  はたして
『母(父)の真綿の鎖』 はそんな一面だけだったのだろうか。 『母(父)の真綿の鎖』 はもう少し別な『文様』もあり、もう少ししなやかで立体的に編込まれているのではないか?

  『家族の真綿の鎖』 を断ち切って
”自立”しなければならないと思いこむことは、一つであって十ではない。

  『母(父)の真綿の鎖』  、
『家族の真綿の鎖』 、  『地域の真綿の鎖』 にもっと光を注ぎ、もう一度、暖かく紡ぎなおす必要があると思う。

  浅間山荘事件もオウム事件もそんな甘いものではない と言われるであろう。
  しかし校舎のガラスを全てぶち壊す時はまだカオスのずいぶん手前にいるが、 ヒトの命に向う時、混沌の闇に囚われる。 私達はなんでもない日常の行為の時々で、 『危うい真綿の糸』をお互いに紡ぎなおしながら、生き延びていかなくてはならないと思っている。

  この厳しくも豊穣な自然にそって、 
他者の『不安と哀しみ』に共感し、自らも『不安と哀しみ』を吐き出し、他者にもっと『依存』して生き延びていいのだ。

  父が亡くなって数年後、私の東京時代のガラクタの中から、他の手紙と一緒に父からの葉書の束が出てきた。 余った年賀状などに書かれた、たわいない日常のことや身体を大切にという内容が全てだった。 癖のある万年筆の字面は甦ったが、当時も今も、父の言葉の一文字も私の記憶に残っていない。 
  ただ、8年分のその束の厚さが2cm以上もあった。 父はこの2cmの重さで
『父の真綿の鎖』を通し、私が『限界を超えたカオスの闇に迷い込むことを』、『人を埋めるか、自分が埋められるかの立場に迷い込むことを』 日々防ごうととしていたことが はっきりと解った。

  浅間山荘事件は1972年、2月に終焉した。

  その数ヵ月後 
『間 章』(あいだあきら)と名のる男が突然 私を訪ねてきた。 黒っぽい服装でデブではないが少し”ぽっちゃり”していた。 自分の音楽活動の今後の企画を手伝って欲しい、 近々、新潟市体育館で自分がプロデュースした『自由空間』新潟現代音楽祭があるので見に来てくれと言った。
  遠目では少し太り気味妖怪ラスプーチンを思わせる彼は、
外見と裏腹に丁寧で全然嫌味がなかった。 東京のある人の紹介で私を知ったという、 ある人は私はよく分らなかったが、わざわざ訪ねてきてくれることに 私は昔から弱い、自宅療養の身であれば時間はいくらでもあったので了解した。

  間章がプロデュースした『自由空間』新潟現代音楽祭は彼の観念で選ばれた自由なものたちのごった煮だった。 ジャズやシャンソン、高田瞽女、三上寛、高橋竹山、海堂道宗祖などなにが出て来ても、そのような場のありようは 私は何の抵抗もなかったし、驚くべきものでもなかった。 しかしその中で一つだけ始めて出会ったものがあった。 私は体育館の片隅でNHKのインタビューを受けていた『間 章』の横にいたのだが、いきなりステージ方面から何かが崩れ落ちる音がした。 いや自動車事故の衝突音のようだった。 慌てて駆け寄るとそれは
高木元輝トリオの演奏だった。 その自動車事故の衝突音は延々と ”ひるむことなく” 崩れ続けていた。 

  当時 『間 章』の”闇”はよく解らなかったが、微かに私の気分と重なるところを知った。

  そしてその衝突音の只中に ”メキシコ人” のような
吉沢元治はいた。 私はその2年後に彼のアルバム 『インランド フィッシュ』 のジャケットを描いた。

  1972年以前の『間 章』はどの時空にいたのかは私は知らない。 私と出会って6年後、 『間 章』は必然的突然に、豊穣な存在の懐に還った。

  前座がずいぶん長くなった。
 『間 章』のことを書こうと思ったが、ずいぶん ずれ込んでしまった。 私は音楽も哲学も言葉は知っているが中身は知らない。  『間 章』と いた場の 『たたずまい』 を ”ぼけないうちに” これから少し書いていこうと思っている。 



   (前座が99%で本文が一行と誤解しかねない。 つづきは書こうと思っている・・・・)   
                                               2002/6/6   志賀恒夫

1968年(昭和43年)12月10日9時25分の24時間前
陸封魚、最初エッチングのニードルの先で点を描いたが、あまりの細かさで腐食に失敗。締め切り2日前に急きょロットリングで描き直した。
1. インランド・フィッシュ
2. 窓
3. フラグメント1
4. コレスポンデンス
F
E
D
C
B
G
A
間  章  が  半  夏      『なしくずしの 死』 を越えて 『なしくずしの生』を
BACK
IA
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(再現2003. 10. 22. 発売、24ビット・デジタル・リマスタリング、紙ジャケット仕様)
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間章(あいだあきら)
(本人が気にいっていた写真)