地蔵堂と良寛
2004/3/18
越後線で新潟から旧地蔵堂駅(分水駅)に向かった。青々とした夏の水田は果てしなく続き、遠くで並走していた弥彦山は気がつくと五合庵の国上山に姿を変えていた。
小学生の私はそこでバスに乗り替え父の田舎へ一人で向かった。毎年夏休みになるとこの言いづらい名の駅と出会った。
「ジゾウドウ」と言う濁音の響きと田舎でありながらアールデコ調で丸窓のある駅舎は奇妙な取り合わせだった。
今になって、西行の黄金地蔵伝説が残る願王閣を中心とした門前町と分かった。大正モダンの駅舎は大河津分水工事を記念し、大堰を模して作られたと知った。
天領地出雲崎、与板、地蔵堂と粟生津の長善館を包む江戸時代の文化度は高かく、治水大事業の計画は当時からあった。そんな心意気が形を変えてデザインされた貴重な駅舎だった。しかし駅名は分水に変わり、駅舎は平成十二年に思い入れのひとかけらもない悲しい建物に作り替えられていた。変わらぬものは稲穂と大河と国上山だった。
縁あって、駅の近くに大きな診療所を設計し工事をさせていただいた。
若い社員に「良寛の五合庵が近くにあるから帰りに寄ってみるか」と誘ったら、「名前は知っていますが何をして偉い人なのですか」と聞かれた。
私も手毬良寛のイメージしかなかったので、あらためて聞かれると答えに詰まった。「何もしなかったことが偉いお坊さんだ」と訳の分からない返答をして煙に巻いた。
若者にもう少しましな答えが言えるようにと、現場近くの良寛資料館や地図を頼りに良寛ゆかりの場所を訪れた。さらに自宅近くの新潟市中央公民館で開かれる新潟良寛研究会(毎月第三金曜日)に入会させてもらった。三十年前の成人講座「良寛」の受講者有志によって設立された自主運営サークルである。
初めて出席して驚いた。講師の谷川敏朗先生は高校時代の古文の先生だった。今は居眠りなどせずに真面目に学んでいるが、良寛の懐は遥かに深く、若者への答など当分見つかることはない。
志賀恒夫