大正生まれの母は一度も社会で働くという経験をせずに一生を終えた。母の現実離れした希望や、たとえのずれた小言は父や成長した子供たちからも世間知らずだと言い返されていた。
新潟市の大和デパート隣で染物屋を興した祖父は現役中に脳梗塞で亡くなった。祖母と尋常小学校の母が残され、女二人の家族は祖母の実家のある栃尾に一時身を寄せた。
醸造業を営み、にぎわっていた実家で趣味の三味線などを習い女学校にも通わせてもらった。大雪と伝統文化のあふれる栃尾で思春期を過ごした。十八歳で教師になりたての父と結婚し、祖母の死後、新潟に戻り終戦を迎えた。貧しくも男四人の子を抱え戦後の混乱期を越えてきた。
母は結婚式で始めて夫の顔を知ったと自嘲気味に言い、また思い出したようにうちの祖先は栃尾の神社に祭られているのだよといっていた。両方とも子供心にそんな事は無いだろうといつも生返事で聞いていた。
亡くなる数年前に病の母の代理として栃尾の法事に出席した。子供の時からの疑問を小声でたずねたら二つとも本当だった。帰りに栃掘にあるという貴渡神社を訪ねた。
栃尾織物を広めた祖神、縞紬の元祖である植村角左衛門貴渡翁の霊を祭ったと掲示されていた。小さな神社だったが繭生産から機織工程までを表した雲蝶作の伽藍彫りは四面きれいに残っていた。
隣には母の祖先の庄屋植村家の大きな石組みが残り、河井継之助一行避難のおり、じゃまな什器をここに預けていったという話も聞いた。
父親の影響を知らぬまま、夢のような短い思春期を過ごし、若くして激動の昭和に翻弄されてきた母は自らをかえりみる余裕もなく、世間知らずだと言われながら七十半ばで亡くなった。
今、貴渡神社を再訪し、このルーツこそ意識されることなく母を支えていた微かなプライドだったのだと分かった。
それならば、もう少し真剣に母の気持ちを受け止めてやればよかったと、花冷えの空を見上げながら思った。
志賀恒夫