晴雨計
新潟日報の晴雨計(2004/2/5〜4/22)

良寛の墓



                         2004/3/25

書は読めず、書けず、分からずの私にとって、独特の良寛書体は抽象画にしか見えない。 

書家の石川九楊氏が「書は祈り」と言うテレビ番組で親鸞は愛の書、日蓮は熱の書、道元は学の書と話していた。最後の良寛は「批評の書」と言った。ひとり草庵で書や歌をたしなみ、清貧と手毬遊びが一般的良寛像だったので批評の書と聞いて少し驚いた。

良寛は曹洞宗岡山円通寺で厳しい修行を終え、西国行脚ののち故郷越後に戻った。真言宗国上寺五合庵、乙子神社草庵などを借り住まいとし、最後は木村家の小屋で七十四歳の生涯を閉じた。浄土真宗隆泉寺の木村家墓地の中央に眠っている。香典記載人数は二百八十五人、野辺送りはその数倍で炊き出し米一石六斗と記録されている。二年後に村人の募金で建立された墓は広さ約二b角の台座の上に一抱え以上の自然石十数個を組み上げ、その上に両手を広げたほどの碑文巨石を組み合わせ設置してある。

最初に訪れた時は、武人の墓以上の雄姿に違和感を覚えた。童と遊ぶ清貧の良寛という平成の目で見るとこの墓は期待はずれである。
  しかし、現代人の違和感を少し横に置き、素直な目で見なおすと、良寛とともに生きた人々の造った墓石デザインの中にこそ良寛生前の姿が表れていると考えるほうが自然である。

寺院仏教を拒否し生涯たく鉢で生き、所有から縛られることなく心の自由を生きた良寛。その自在を知り、受け入れてしまった村人はお上の制度と違う生き方を十分感じ取ってしまった。

 良寛喪失の反動か為政への沈黙の抗議か、ひいき目に見ても決して美しい石組みではないが里村の人々が自然石で描いた良寛の肖像にほかならない。それなら当時の村人の良寛像はもっと力強く骨太で健脚なイメージということになる。聖と俗を行き来し、個に引きこもることなく社会を見つめ、自らを見つめた良寛の批評の書の意味が少し見えてくる気がする。
 良寛の死後三十数年で明治維新をむかえる。

                  志賀恒夫(ロビンアートスタジオ代表)







石川九楊、京都精華大学文字文明研究所。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/...
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